昭和50年04月06日 特別奉修委員
(?)をさせて頂いたら、どういう心の状態になったらおかげが受けられるか、お徳が受けられるかという事を教えて頂くのですから、その事に精進しなければいけません。おかげの受けられる心の状態。皆さん今度御本部参拝でそれこそ皆さんが、本当に今度の御本部参拝は、とても有難かったと言われるんですが、いつの場合でもあれですよね皆さん。いつの場合でも本当今度おかげを頂いたちみんな言われるんです。
本当に御本部と言う所は、不思議な所ですが、そういうおかげの受けられる心の状態を作る。それが五千円か六千円から出来るのですから、こげな有難い事はないですね、御本部参拝というたら。本当に夕べ私が休んだのは、一時くらいだったでしょうか。ここ二三日風邪でしょう、聡子がじっとしておりますもん。それでどこか痛いとか何とか訴えとりましたが、夕べも中々休ませんでおりました。それから布団の中で起き上がってからお願いさせて頂いたら、死ぬるの死という字を頂くんですよ。
それがこちらにこうヒの字を書けば死という字になるわけです。所がヒという字は書いてないけれども、こうこうしてヒば書けば死という字なるという。これは死ぬとだろうかと言う様な、子供でんどうかあってからしとりますと、やっぱり最悪の場合を連想致したり、考えたり致します。だからそういう考えでは、おかげにならんし、またそういう時にままよと神様のご都合ならば、それでもありがたく受けるという様な心の状態を頂けば、なおさらありがたい事ですけれども。
それからまた私も死の一歩手前のような感じですよね。ヒという字を書きゃ死になると言う様な頃ですから。それからまた起きて又こちらに出てきました。そして御祈念をさせて頂きましたら、死には至らないと言う事です。みんな家内やら色々最悪の場合をちょっと連想したりしますから、まあ安心を与えれと言う事だったらですね。ですからそういう心の状態を、いつも願い求めておりながら、そういう場合に今度はおかげの受けられない方の考えが心の中に浮かんでくる。
だからそこん所を心配する心で信心せよと仰せられますから、心配する心で信心させて頂きよるとおかげになる。おかげになると言った様な強い心が湧いてきたり、例え死んでもままよという様な心が生まれたり、または御理解を頂く。頂いてみると、神様は心配しよるけれども、死にゃせんと言う事を下さりよるわけですよね。死には至らないと言う事です。頂く途端に皆のものが安心ができると言った様に、そういう安心の心を、断片的にでも頂いて行くと言う事が信心です。
それが愈々本当のものになって来る時に、大安心のおかげと言う事になって参りましょうけれども。私は金光様の御信心は、どこまでもおかげの受けらる心の状態を作って行く事。だから自分で思うてみて、はぁこんなこっちゃおかげは受けられんと気がついたら、それは何を置いても、心を神様に向けなければいけないと言う事。そしてそこに心配する心で信心をさせて貰う。
そこからままよという心が生まれてくる。又はおかげになると確信が生まれてくる。そういう心を絶えず求め続けて行くことが信心だと思うですね。それを本当に心配をしながら、心配しよりましたばってんおかげ頂いただけでは進歩がない。そういう都度都度にそういうスキッとしていく心の状態を作って行く精進が信心の稽古だと思うですね。今朝から頂く、釘つけではないと言う事は、そう言う事だと思うです。